Jacopo Prisco, CNN
歴史上の多くの偉大なアイデアと同様、テトリスも全く意図せずに生まれたものだった。
アレクセイ・パジトノフさんは当時、モスクワのソ連科学アカデミーでソフトウエア技術者を務めており、新型コンピューター「エレクトロニカ60」の試験を任されていた。そこで、子どものころ遊んだパズルを基に単純なゲームを作成。エレクトロニカ60の性能評価に役立てつつ、ちょっとした楽しみにもなれば、と考えた。
出来上がったゲームが史上有数の中毒性を持つゲームとして成功するとは思いもよらなかった。
時は1984年6月6日。テトリスによる鉄のカーテンの向こう側からの旅は始まったばかりだった。
オリジナル版のテトリス
テトリスはパズルゲームの一種で、プレーヤーは落下してきた「テトロミノ」と呼ばれる幾何学形状を隙間なく並べてラインを作る。パジトノフさんが着想源としたのは、「ペントミノ」と呼ばれる古典的なボードゲーム。五つの正方形の組み合わせによってできる計12種類の形状を扱う。目標はこれらを木製の箱の中にジグソーパズルのように並べることだ。
パジトノフさんは単純化のために正方形の数を四つとし、組み合わせによってできる形状の数を12から7種類に減らした。そしてギリシャ語の数詞「テトラ」(4を意味する)と趣味のテニスを掛け合わせ、「テトリス」と命名した。
パジトノフさん自身もすぐに夢中になった。現在住むシアトルからインタビューに応じたパジトノフさんは、「形を組み合わせるのにやみつきになり、試作プログラムで遊ぶのをやめられなかった」と振り返る。
テトリスは古典的なボードゲーム「ペントミノ」に触発されて誕生した/Shutterstock
だが、冷戦最盛期のソ連でビデオゲームを開発するのは簡単な作業ではなかった。テトリスが一風変わった試験プログラムから世界的な現象になったのは、ひとえにデザインの秀逸さによる。
口コミ
テトリスはエレクトロニカ60を利用できるプログラマーの間で即人気になったものの、このマシンには描画能力がなく、記録容量は今日の電卓以下だった。より描画能力に優れるコンピューター「IBM PC」向けのバージョンを作ってほしいとの要請を受け、パジトノフさんは夏休みのアルバイトに来ていた当時16歳の学生、ワジム・ゲラシモフさんに白羽の矢を立てた。出来上がったゲームはすぐに広まった。「山火事のようだった。ソ連でパソコンを持つ人は全員テトリスを入れていた」(パジトノフさん)
パジトノフさんにテトリスからの収入は一切入らず、本人にもその気はなかった。テトリスのアイデアは国が所有していたうえ、ソフトウエアを製品として売るという発想自体、パジトノフさんにはなじみがないものだった。テトリスはもっぱら口コミで広がり、利用者はフロッピーディスクにコピーしていた。
やがてパジトノフさんの耳に、テトリスが国境を越えて他の東側諸国でもプレーされているらしい、とのうわさが舞い込んできた。1986年にはロンドンを拠点とするソフトウエア企業アンドロメダの営業マン、ロバート・スタイン氏からテレックスを通じてメッセージを受け取った。ハンガリーでテトリスを目にしたスタイン氏は、西側での販売権を取得したいと考え、相当な額の前払金を提示した。
パジトノフさんは前向きな返事をしつつ、西側企業と直接取引すれば刑務所行きになる可能性もあると分かっていたため、国を通じた権利売却の方法を調べ始めた。
だが、スタイン氏はこの返事をゴーサインと解釈し、直ちにゲーム制作を始めた。しかし発売準備を進めていたところ、ソフトやハードの輸出を監督するソ連の団体「Elorg」から別のテレックスを受け取った。権利付与の正式承認が下りておらず、発売は違法との内容だった。
最終的にスタイン氏は権利関係を解決、1988年に米英でPCソフトとしての発売にこぎ着けた。ゲーム内ではクレムリン(大統領府)をテーマとする背景画像やキリル文字を通じ、ソ連由来であることが強調されていた。それでもパジトノフさんとスタイン氏の間で生じた誤解は、ソ連から西側諸国へのゲーム輸出がいかに難しいかを物語っていた。
パジトノフさんと息子。英国と米国で発売されたPC版テトリスを手にしている=1989年/Wojtek Laski/Hulton Archive/Getty Images
ゲームボーイ
テトリスのコンピューターゲームとしての売れ行きは好調だったが、ゲーム業界の主な収益源は家庭用ゲーム機だった。そこに目を付けたのが日本在住のオランダ人ゲーム開発者、ヘンク・ロジャースさんで、テトリスが携帯用ゲーム機「ゲームボーイ」にぴったりだと真っ先に見抜いた。
ロジャースさんは必要な許可の取得に動いたものの、間もなく大変な挑戦であることに気付いた。同氏は既に日本でファミコン版テトリスを発売しており、その際、権利を主張する会社が複数存在することを知ったのである。
ロジャースさんは飛行機に飛び乗りモスクワ入り。最初こそ進展がなかったものの、国家保安委員会(KGB)の要員らしき通訳の女性を雇ったところ、すぐにElorg関係者との面会を取り付けてくれた。
面会の席にはパジトノフさんもいた。2人はたちどころに意気投合。「その場にいた中で、ゲームのことをまともに理解していたのはアレクセイだけだった」「テトリスによるビジネスについて説明するうちに、私たちは友達になっていた」と、ロジャースさんは振り返る。
その1週間後、ロジャースさんはゲームボーイ版テトリスの契約書を携えてモスクワを離れた。
ヘンク・ロジャースさんとパジトノフさん=モスクワの赤の広場
ゲームボーイ版テトリスの売り上げは3500万本に上り、ゲームボーイ躍進の原動力となった。今でもパジトノフさんを含め多くのユーザーから最高のテトリスと評価されており、ハードとソフトのかつてない相乗効果も生み出した。
遅れて支払われた権利使用料
テトリスの成功にもかかわらず、パジトノフさんに収入は入ってこなかった。「法的な問題が山積みだった。所有権やソースの問題が持ち上がった際、私は全てを円滑に進めたいと思って、ソ連科学アカデミーのコンピューターセンターに10年分の権利を譲渡した」
こうした法的問題は、ホームコンソールの権利を巡る任天堂と米アタリ社の紛争で頂点に達した。裁判所は1989年後半、任天堂の主張を支持する判断を示し、アタリにとって大打撃となった。アタリは既に「テトリス ソ連のマインドゲーム」のキャッチコピーで数十万本を制作していたものの、水の泡となった。任天堂はこれとは異なる戦略を採り、「ロシアより楽しみを込めて」とのスローガンを選んだ。
パジトノフさんは91年、友人であるヘンク・ロジャースさんの助けを借りてモスクワからシアトルに移住。95年に権利をめぐる合意が失効したのに伴い、ついに使用料を受け取り始めた。
パジトノフさんとロジャースさん=2018年
パジトノフさんとロジャースさんは96年、テトリスや関連商品のライセンス供与を扱う企業「ザ・テトリス・カンパニー」を設立。2005年にはソ連崩壊後に民営化していたElorgを買収し、世界全体でテトリス関係の権利を掌握した。同社はまた、一般的に「テトロミノ」と呼ばれるテトリス中の幾何学形状のブロックを「テトリミノ」と公式に呼び変え、商標登録もしている。
ザ・テトリス・カンパニーによると、今日に至るまでテトリスは世界記録となる65超のプラットフォームで発売され、モバイル端末では5億回以上のダウンロードを記録している。
最新作は2019年のゲーム誕生35周年に合わせてリリースされた多人数対戦型オンラインゲーム「テトリス99」で、最大99人が同時にプレーできる。
そんな根強いテトリス人気について、ヘンク・ロジャースさんは「プレーの価値は全く失われておらず、テトリスに取って代わるゲームは現れていない」と説明する。
「いわば誕生日に歌う『ハッピーバースデー』のようなもの。これまで多くの歌が生まれては消えてきたが、『ハッピーバースデー』はいつも同じように歌われている。テトリスはコンピューターゲームの『ハッピーバースデー』になった」
2019-12-29 08:50:00Z
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