コロナウイルスの脅威は未だ収まる兆しを見せません。この未曽有の危機に立ち向かうにはどうすればよいのか――。いまから25年前に発表された篠田節子さんの『夏の災厄』は、未知の感染症をテーマにしたパンデミック・ミステリです。前例の無い事態に後手に回る行政、買い占めに走る住民たち、広がる混乱と疑心暗鬼……。今日の状況を予見しただけでなく、この災厄を乗り越えるためのヒントも提示する本作の、冒頭部分を6回に分けて公開します!
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夜間診療所の勤務体系は、二日勤務すると翌日が一日休みという三日サイクルだ。房代と和子のペアの休む日は、別のペアが勤務し、診療所は年中無休になっている。
一日休んで、その翌日、房代は少し早めに診療所に行った。この日は午後から気温が上がり、日が暮れてもほとんど涼しくならなかった。
房代は、診療所に入るとまずエアコンのスイッチを入れ、それから外用薬のケースから
窓の白いカーテンを開け、机の上を整理しようとして気づいた。
救急病院からの報告書が重ねてある。ここ夜間救急診療所は軽度の患者を治療する一次施設であり、重症者は二次施設である救急病院に送る。報告書は移送した患者のその後の経過を記載したものだ。
一枚ずつめくっていき、途中で手が止まった。この前、「甘い匂いがする」と言ったまま、富士大学付属病院に転送された女性患者の名前がある。
眼鏡をちょっとずらせて凝視した。はっ、とした。たった一行の短い記載があるだけだ。「収容後死亡」と。
裏返してみるが、他に何も書かれていない。あの病気が何だったのか、そして収容後、どういう経過をたどり、どのくらいで死んだのか。必要な情報は何一つない。
それにしても、つい三日前に診療所の長椅子でうとうとしていたあの患者が、死んでしまうとは。
気の毒に、子供も小さいだろうに……。
他人事ながら、なんともやりきれない思いでため息をついたその後で、妙な予感に捕らえられ、背筋が冷たくなった。
「おはようございます」
和子が入って来た。夜だというのに、彼女の挨拶はいつでもこれだ。
「何見てるの?」と和子は、房代の後ろから手元を覗き込む。
房代は黙って、「死亡」の文字を示す。
和子は肩をすくめた。大病院で日常的に死に接してきた和子は、こんなことには驚かない。
「例の、あの患者さんよ、妙な匂いをかいだって言っていた」
和子は眉の先をぴくりと動かした。
「この翌日来た男の患者さんのほうは、どうなった? あの熱中症って診断された」
「さあ」と房代は首を傾げる。
「変な病気が、流行っているのでなければいいけれどね」
その日、頭痛、発熱、吐き気を訴える患者は、十人近く来た。しかし彼らの中に、あの奇妙な病気の者が混じっているのかどうかはわからない。内科の約半数は、腹痛を訴え、それ以外はほとんど頭痛だ。熱があって頭が痛ければ、大抵は吐き気もある。
サイレンの音とともに、救急車が診療所前に横付けされたのは、十一時過ぎのことだ。
患者の腕に包帯を巻いていた和子が、厳しい顔でそちらを窺う。待合室の患者たちに覗きこまれながら、一台の台車が運び込まれた。
子供の患者だ。体を海老のように丸め、両手で自分の頭を抱いている。救急隊員が小さな体を診療用ベッドに抱き下ろす。蛍光灯が土色の顔を照らす。とたんに、子供の丸みを帯びた手のひらが、その目を覆った。
「まぶしいよ、目が溶けちゃうよ」
乾いた唇から漏れた声は、か細く高かった。こちらで別の患者の薬を用意していた房代は、思わず振り返る。医師が子供の手を取り
「風邪ひいたんで、寝かせといたんです」
母親が、うろたえながら医師に訴える。
「医者、連れてったの?」
「いえ、この子、お医者さんがだめなんです。アレルギーがあるから、注射はダメで予防接種も受けさせたことはないんです」
取り乱した母親の話は要領を得ない。
「なんで、こんな所に連れてくるの?」
背後で和子の甲高い声が響いた。救急隊員にくってかかっている。夜間診療所には、重症患者に対応できる設備はない。そのことは関係機関に周知徹底してあるはずだが、玄関先に回っている赤ランプに誘われるように、月に一、二度、不慣れな隊員がこういう患者を運び込んでくる。一刻を争うケースでは生命にかかわる。
医師は、母親の言葉を聞き終える前に、救急病院に回すように指示する。
青柳が受付の電話に飛びつき、病院の空きベッドを確認する。その間、母親はおろおろしながら、今度は房代に訴えた。
「助かるんでしょうか。この子弱いから、自然食しか食べさせなかったし、薬も飲ませなかったんです」
子供の様子を見守りながら、房代は黙ってうなずく。不正確な情報だけが一人歩きした結果、最近こういう母親が増えてきた。
「こんなになるなんて……様子がおかしかったんです。部屋に虹が出てるとか、花の匂いがするとか、言って」
「匂い?」
「あの子、ゲームばっかりやっていたから、てっきり」
そこまで言ったとき、子供は再び台車に乗せられ救急車に戻された。
遠ざかっていくサイレンの音を聞きながら、房代は不安がいよいよ高まってくるのを感じていた。
「今の患者さんのカルテ、見せて?」
房代は、青柳に尋ねる。
「ないよ。何もしないで、そのまま病院へ送ったから」
舌打ちした。記録を残してないということは、移送した後の経過報告も上がってこないということだ。
その日の診療が終わった後、房代は消防署に電話をして、運ばれてきた患者の住所を尋ねた。
電話は救急隊員に代わり、答えはすぐに出た。
若葉台住宅。十年ほど前に市の西部に広がる丘陵地を切り開き、造成された団地だ。
市の東側にある旧市街から、曲がりくねった道をバスで四十分ほど行ったところで、ちょうど窪山町から谷を隔てた向かい側の斜面にあたる。
都心へのベッドタウンとして開発された若葉台は、昭川市に合併された三十年前まで、「
今、その市街地から離れた、森の中の飛び地のようなごく狭い地域から、三人、奇妙な症状の患者が出た。それも、この夜間救急診療所一カ所で見たケースだけでだ。
最初の女性患者は上気道炎と診断され、次は熱中症、そして今日の患者にはどういう病名がつけられるのだろうか。幻の匂いや光を感じるという、共通した訴えがありながら、彼らは、別々の病気と診断される。
「窪山地区で、何かあったんじゃないだろうか」
房代は、帰り支度をしている和子の背中に話しかける。
「そうね、住民が変な病原体を海外から持ち帰ったのかもしれない」
ボタンを留めながら、和子は顔だけこちらに向けた。
「この前、昭川保健所の所長と話す機会があったんだけどね、このところ毎日のように成田まで職員が出張しているそうだわ。うちの市民が、海外旅行帰りに検疫で引っかかっているそうよ」
「何の病気?」
「いろいろよ、それこそ。いろんな国に行くようになったもの。昔みたいに赤痢やコレラばかりじゃないらしいわ。売春宿行ったり、海鮮を生で食べたりして寄生虫にやられるのも増えているみたい。でも、病名が確定できるうちはいいのよね。アジアやアフリカ帰りだと、細菌かウイルスか寄生虫か、原因がさっぱりわからない、なんていうのもあるそうだから。この前聞いた話では、タイからの出張帰りで、なにがなんだかわからないのがあったらしいわ。本人は向こうの呪術師に呪いをかけられたって言って、保健所の人たちの手を焼かせたそうよ。現地の女と何かあって、一族の恨みを買ったんですって」
「で、どうしたの?」
「横浜に住んでいる霊能者のところに駆け込んで一件落着。まあ、自然治癒でしょうけど」
「御祓いで病気が治れば、世話がないわねえ」
房代は苦笑しながら、この前の女性患者の死亡報告書を和子に見せた。
「これ尋ねてみたほうがいいんじゃないかしらね。死んだって書いてあるだけじゃ、何が何だかわからないもの」
「どこに?」
「移送先の富士病院よ。あそこなら重症患者をあちこちの病院から受け入れているから、何かわかったかもしれない」
「無駄だと思うね」
冷めた声で和子は答える。
かまわず房代はそこの電話番号を押す。女が出た。
「昭川市夜間診療所の……」と言いかけると、すぐに「お世話になっています」と挨拶が返ってきた。
房代は、報告書の内容について尋ねた。
相手は、「ちょっと、こちらでは把握していないので」と言って、電話を回す。オルゴールの音がして、今度は男の声になった。
同じことを尋ねると、担当の先生がいないのでわかりません、と言う。それではいつ、だれにきけばわかるのか、と尋ねると、相手は、「報告書を送ったはずですがね」とにべもない。
「死亡とあるだけで、何で、いつごろ亡くなったのか書いてないのよ」
「失礼ですが、おたくは?」
「夜間診療所の者で、堂元という者ですけど」
「昭川市保健センターの職員さんですか?」
「いえ」
「医師ではないですね」
「看護師です」
「どなたかそうしたことをお知りになりたいという先生がおられたんですか?」
「え、はあ」
「それでは、先生を直接出してくれませんか」
「いえ、今、ここには」
「わかりました。明日の十時過ぎに医局のほうに連絡を下さるように、先生にお伝えください」
それだけ言うと、相手は一方的に電話を切ってしまった。
「まっ」
房代は目をむき、音を立てて受話器を置いた。
和子が肩をすくめた。
富士病院というところは、ものを尋ねたところで、一介の看護師にはまともな説明をしないところらしい。
翌日、午後から保健センターの打ち合せ会があった。普段はパートタイマーだけで運営されている夜間診療所だが、このときには正職員が出てきて、現場からの報告や要望を聞くことになっている。
房代や和子、それに彼女たちと交替で勤務しているもう一組の看護師を含め、パートタイムの看護師と事務員、それに夜間診療所担当の永井係長と小西が、診療所内の会議室に集まった。
中村和子が古くなった器材の交換を要求し、永井係長が「予算が無い」の一言で
房代がいきなり報告書のファイルを出してきて、小西に尋ねた。
「これ、肝心のことが書いてないんだわ。たとえば、これ」と例の女性患者の物を指差す。「『収容後死亡』ってだけじゃ、意味がわからないでしょ」
「へ?」
小西は、ちょっと眉を寄せた。
「ああ、それか」
永井係長がそちらにちらりと目をやって、代わりに答える。
「うちのほうは、実際それは関係ないんだ。病院へ移送すれば、一応ここの仕事は終わりだからさ」
「つまり、『あの患者どうなった?』なんて尋ねる医者がたまにいるから、一応あるだけで、別に我々には関係ないんですよ。送り先の救急病院のほうだって、こんなものいちいち書いてられるほど暇じゃないですしね」と、小西が続ける。
「それじゃ、何のために報告書があるかわからないじゃないの」
和子がファイルを人差し指で弾いた。
「まあまあ」
永井が、なだめる。
「富士病院には、いろいろうちも世話になってるんで、こっちも、ちゃんとした報告書を上げろだのなんだのとうるさいことは言えないわけよ。つまらないことでヘソを曲げられて、集団検診の日程を変えられたりしたら大変だし。ま、看護師さんたちが、一生懸命やってくれてるのはわかるけど、書類の書き方まで文句つけるのは、さ、ちょっとひかえて」
「あたしゃ別に文句つけてるわけじゃないんだけど」
ぶすりとして房代は言った。
「送った以上、こっちにだって、それなりの責任がありますよ」
和子が憤然として続ける。房代もうなずく。青柳はにやにやしているだけだ。
「責任を取るのはこっちですから心配しないでいいですよ。おたくらは、所詮パート……」
そう言いかけた小西が、言葉を止めた。永井が机の下で彼の手をつついたのだ。が、もう遅い。看護師たちは顔を見合わせ、和子は鷹のような目で、若者を
房代は、ちょっと間を置いて言った。
「たとえばさ、極端な話なんだけど、この患者さんが実は伝染病だったとしたら、どうするの? 教えてもらえなかったここの診療所は、汚染されていたりするわけでしょ。私たちだって、自分が感染したんじゃないかって心配になるわよ」
「確かに極端な話ですね」
小西は小馬鹿にしたように笑い、足を組んだ。その足先を永井がテーブルの下で思い切り蹴飛ばして、睨みつける。それから看護師たちに向かい、顔色をうかがうように笑いかけた。
「看護師さんたちにそこまで考えて仕事をしてもらっている、というのは、本当にありがたいことなんですけどね。ただ、伝染病ならちゃんと病院から保健所へ届け出ることになってるんですよ。そうなれば今度は県からこの昭川市の医療対策課に連絡が入ってくるわけで、こちらとしてもちゃんと対応はしますから。だからそのへんは安心して仕事して下さいよ」
永井は一旦言葉を切って、看護師たちの顔を覗きこんだ。
「でも気になるようなら、こっちのほうから富士病院に尋ねておきますから、それでいいでしょう」
「ええ、まあ」
房代たちはしぶしぶうなずく。
(第6回へつづく)
▼篠田節子『夏の災厄』詳細はこちら(KADOKAWAオフィシャルページ)
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April 07, 2020 at 02:00PM
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この未曽有のウイルス禍を乗り越えるためのヒントがここにある――。今日の危機を予見した、パンデミック・ミステリ『夏の災厄』試し読み!#5(全6回) | 夏の災厄 | 「試し読み(本・小説)」 - カドブン
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