一般社団法人みつかる+わかる代表理事 市川 力
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本連載ではこれまで、児童生徒に対する関わり方について述べてきたが、最も重要なポイントが残されている。それは教師側のマインドだ。見えない成り行きを追い求めるプロジェクトにおいて、従来の「教師」としてのマインドは捨てなければならない。
こう書くと、教師不要論、教師批判と捉えられてしまうかもしれないが、そうではない。児童生徒と取り組む課題は、教師の専門外であり、教師自体もどう解消してゆけばよいか分からない。つまり、あらかじめ教える内容を教師が持ち合わせていないのである。そのため、「どう学びを進めたらよいか分からない」と、教師が不安になるのも無理はない。ではどうするか。その答えが「共にたくらむ」ことなのだ。
「教える人」と「教わる人」という非対称の関係ではなく、児童生徒と同等の立場で自らも参画する。私と慶應義塾大学の井庭崇教授は、こうした役割を「ジェネレーター」と名づけた。「ジェネレート」とは「何かを生成する、生み出す」という意味だ。目標や方法がはっきりしない課題に取り組むには、取りあえず試し、つくり、表現してみてその結果を基にどう進めるかをその都度考えてゆかねばならない。何かを「生み出し」ながら共に歩むので「ジェネレーター」なのである。
対等な立場で課題に立ち向かっていると、いつしか自分と相手の境目がなくなる。それぞれが「個」の面白さを発揮しつつ、相手の「個」を面白がる関係が「ジェネレート」し、お互いの好奇心や新たな発想が「ジェネレート」する。教師である自分も学生と共にどっぷり課題状況に没入し、共にたくらむ仲間となるのが「ジェネレーター」である。
「ジェネレーター」は、優位な何かを持っているわけでも、客観的に物事が見えているわけでもない。アマチュアで、素人に過ぎない存在でありながら、試行錯誤を繰り返さざるを得ないプロセスにわざわざ飛び込んで面白がる。すると「ジェネレーター」の振る舞いに他のメンバーが共振し始め、やがて全員が「ジェネレーター」と化し、自律的に動きながら、互いに刺激し合い、支え合う場と関係性が生まれる。児童生徒たちとのプロジェクトにおいて、学びに関わる「教師」には、こうした「ジェネレーター」としての在り方が求められているのである。
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