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Saturday, December 25, 2021

冬休み文章講座!藤田祥平による「ゲームについて書くための」ヒント - IGN Japan

こんにちは、藤田祥平です。ゲームライターの仕事をはじめて、もう5年になります。まだまだ若手のつもりだったのですが、光陰矢のごとし。文章講座を書いて欲しい、それも読者がゲームについて書くための、とご依頼を頂きました。おもしろそうなので、やってみようと思います。

この講座は、とくにプロフェッショナルにむけた講座ではありません。みなさんが広くゲームについて書き、ブログなどで発表する楽しみの助けになれば、といった趣旨のものです。とはいえ、プロをめざすみなさん、あるいはわたしと同業者のみなさんにも、発想のきっかけ位にはなるんじゃないかな、と思っています。

さきに断っておきます、この講座は作文については深く語りません。ゲームについて書くまえに、自分の文章がどうにも気に入らない、作法に悩んでいるという方には、谷崎潤一郞の『文章読本』をおすすめします。これは1934年に出版されたものですが、作文の極意が詰まっています。Wikipediaによる内容の概略は――

  • 言語は思想を伝達する機関であると同時に、思想に一つの形態を与える、纏まりをつける、と云う働きを持っている。
  • 言語は万能なものではないこと、その働きは不自由であり、時には有害なものであることを、忘れてはならない。
  • 文章のコツ、すなわち人に「わからせる」ように書く秘訣は、言葉や文字で表現出来ることと出来ないこととの限界を知り、その限界内に止まること。
  • 文章に実用的と藝術的の区別はない。
  • 出来るだけ多くのものを繰り返して読むこと、実際自分で作ってみること。
  • 余りはっきりさせようとせぬこと。

となっています。これだと何だかかたい感じがしますが、さすが谷崎、本編では例や挿話をまじえて軽快に話してくれますから、ぜひ手にとってみてください。中公文庫からはKindle版も出ているようですね。198円、安すぎる。文章を志すひとなら、女房を質に入れてでも読むべきだ。

それでは講座をはじめましょう。

その壱:まねをする

すばらしいゲームをプレイし、感動したとき、ほかの人はこの作品についてどんな感想を持ったのだろうと、インターネットを回覧することはありませんか。わたしは、よくあります。たぶん、みなさんもありますよね。

それがチャンスです。その作品について書かれたネット上の文章をひとつ読み終えたら、特に興味を惹かれたものを、ブラウザのタブにでも置いておいてください。これくらいでいいかと思ったところで、ひとつ深呼吸をして、再読してみてください。

このときに注意を払うべきは、それらの文章のテーマではなく、スタイルです。意見や、感想ではありません。文章そのものが、どんな構造をしているかに注意してみましょう。

その文章はどのような方法で書き出し、読者の興味を惹き、山場を作っているか。結尾はどんな言葉で締めているか。そうした目で見ると、その文章に固有のリズムが見えてくるはずです。その作法を観察し、まねをするのです。

大学生のみなさんは、はじめてのレポートを提出するまえに、書き方を教えてもらったことがあるかもしれません。序論、論証、結論と行くやり方ですね。序論はこれから論じることのテーマと、導き出される結論について述べる。論証部分は、さまざまな文献や実験結果を持ってきて、組み立てる。得られた結論を述べたあとは、参考文献を並べる。

書き方を押しつけられるなんて、なんだか窮屈だなあと思ったかもしれませんが、これにはわけがあります。先生がそれらのレポートを読むとき、生徒ひとりひとりの文章のスタイルをいちいち解釈していては、身が持たないのです。

新しい作家の本を読みはじめるとき、とくにどこが悪いというわけでもないのに、文意を飲み込むのに苦労することがありますよね。しかし30ページも我慢して読み進めれば、慣れてきて、読書がノってきます。

しかし、何100人分もの生徒に合わせてノリを学んでいくのは大変です。だからわれわれは先生を助けるために、ああいった、統一された形式で書いたわけです。

もちろん、論文形式でゲームについて書けと言っているわけではありません。ネット上のすてきな文章を自分で選んで、自分でそのスタイルのまねをするのです。語り方や、雰囲気、段落の切り方なんかを模倣してみるのです。なんだか楽しそうじゃありませんか。

そうしているうちに、どうしてもうまくいかないところが出てきます。しかし、それでいいのです。テーマ、内容をまねているわけではないのだから、ふたつとおなじ文章を書けるわけがない。そしてじつは、うまくいかないところにこそ、あなたの文章のスタイルが現れてきているのです。

詰まったら、ひとつ深呼吸をして、もういちど頭から読み返してみましょう。そのとき、自分の伝えたいことはなにか、どう表現すればよいか、といったことに、あまりこだわらなくても大丈夫です。他人のふりをして読みましょう。さて、ここに誰かさんの文章があるな、ひとつ読んでみるか、という態度で。

おお、こんなふうに書き出して、興味を惹いて、盛り上げてきたな。それならきっと――こうだ、と思う一行が、見つかるはずです。

しかし、見つからないときもあります。そういうときは、ゲームをプレイして気晴らしをするか、早寝をしましょう。

その弐:形式と内容をわけて考える

大好きなゲームをプレイして、胸がいっぱいになっている。どうしてもいま、このゲームについて語りたい。だけど、どんなふうに書けばいいのかわからない――そんな経験はありませんか。わたしには、あります。このようなときに使える、必殺技をお教えします。

あるゲームの形式と内容を分けて、考えてみるのです。

形式は、ジャンルやゲームシステム、メカニクスや報奨のサイクルにまつわること。

内容は、グラフィックや音楽、物語などにまつわることを指します。

永遠の古典、1985年に発売された『スーパーマリオブラザーズ』を、このやりかたで語ってみましょう。

<b>Super Mario Brothers (1985)</b></br></br> The grand-daddy of em’ all, Super Mario Brothers blew the doors off video gaming. It represented one of the few true seismic shifts in the history of entertainment, reigniting the video games industry in the US, redefining it in Japan, and advancing the state of the art. A technical showpiece and a design revolution, Super Mario Brothers was so much further ahead of anything that had come before it that its existence was almost incomprehensible to the mind.</br></br> Decades after the novelty wore off, Super Mario Brothers remains a near-perfect essay on the craft of game design. Its simple appearance belies intricate, purposeful craftsmanship. Every tile and block seems perfectly placed. Mario’s handling is the archetype for all platform characters to follow. The unforgettable melodies feel synchronized to the action unfolding onscreen. Over three decades after its release, Mario’s first adventure in the Mushroom Kingdom is still one of gaming’s greatest feats.
『スーパーマリオブラザーズ』(1985)

まず、内容から。「オーバーオールを着たマリオというキャラクターが、土管や落とし穴やモンスターといった危険をかわしながら、悪者クッパの城に踏み込み、お姫様のピーチを助けるゲーム。」

こんどは、その形式。「プレイヤーは十字キーでマリオを右に動かし、Bボタンでダッシュ、Aボタンでジャンプをして、さまざまな障害物をかわしながら、ステージごとのゴールをめざす。」

どうですか、ずいぶんわかりやすくなったでしょう。

さて、こんどはあなたの番です。自分の語りたいことが、そのゲームの形式と内容の、どちらに属するのかを考えてみてください。もしも滑らかな操作感に強く惹かれたのなら、あなたはゲームの形式を語りたがっている。クリボーやノコノコのかわいらしいデザイン、明るい地上ステージと薄暗い地下ステージの対比、軽快な音楽などに惹かれたのなら、あなたはゲームの内容を語りたがっている。まずは、そのどちらかに集中してみてください。

しかしゲーマーのみなさんは、この形式と内容が美しく結びついていることこそがビデオゲームの妙味だ、それについて今すぐ語りたい、と感じているかもしれない。そう、その通りなのです。形式と内容は、じつは切り離しがたいものです。

ですが、慌ててはいけません。まずは、このふたつをできるだけしっかり分けたうえで、結尾にむけて徐々に結び合わせていきましょう。そうすることで、書き出す前よりももっと深い解釈が生まれてきます。書きながら、作家の手つきのすばらしさに気づき、次に書くべきことが浮かんでくるわけです。こうなれば、こっちのものです。

その参:書き出しの手段3つ

文章を書くのは、読むのとおなじくらい楽しいことです。しかし、何事にも勢いが肝心。迷いながら書き出すと、そのあとも弾みがつきません。いくつか、書き出しに使える小技を紹介します。

・いちばん気に入ったシーンを文章化する

語りたい作品の特定のシーンに強く惹かれたのなら、その場面をそのまま文章にしてしまうのがおすすめです。このとき、どれくらい読者はわかってくれるだろうか、と気を遣う必要はありません。大好きなシーンを、あなたの文章で再現するつもりで書けばよいのです。すると読者は、ちょっと面食らいながらも、怖い物見たさで想像をはじめます。

たとえば私は、『Kentucky : Route Zero』というゲームのレビューの書き出しを、こんなふうに始めました。

「「リゼットのアンティーク・ショップ」で働いているトラック・ドライバーのコンウェイは、この広大なケンタッキー州のどこかにあるという、ドッグウッドたる町を探していた。その町まで、アンティークを運ぶのが今回の仕事なのだ。

『Kentucky Route Zero』(2013)

しかし、ドッグウッドなどという場所は見たことも聞いたこともない。地図もなければ道標もない。迷った果て、えんえんとつづく農道沿いに見つけた小さなガソリンスタンドで、ベンチに座っていた老人に道を尋ねた。

「そこへ行く道ならば、おそらくウィーバー・マルケスのお嬢さんが知っているはずだ。彼女はご家族の農場にいるだろう。インターステート65号線を北上し、〈延々と燃え続けている悲しい樹〉が見えたら左折すれば、マルケス家の農場はすぐそこだ。」

どうです、なんだか幻想文学の書き出しみたいじゃありませんか。〈延々と燃え続けている悲しい樹〉なんて、じつにすてきでしょう。しかしこれはわたしの創作ではなく、作品のとあるシーンとテキストを、そのまま文章にしたものです。

この作品はテキストだけでなく、グラフィックや音楽、音響、演出をふくめて、すばらしいポエジーをたたえています。このシーンが好きな人なら、きっとこのゲームを気に入るはずだと直感して、こんな始めかたをしてみたわけです。形式と内容の話であれば、ゲームの「内容」にやられたときに使えると思います。

・そのゲームから学んだことを一般化して語り始める

『Nightvision: Drive Forever』(2020)

一見して、まったくゲームと関係のなさそうなことから書き始めるのもひとつの手です。たとえば私は、『Nightvision: Drive Forever』というドライブ・シムについてのコラムを、こんなふうに書き出しました。

「私たちが自動車の運転から得るよろこびは、つねに注意深く制限されている。この制限を払いのけるには、並大抵ではない、狂気にも似た決意が必要である。というのも、前提として、私たちは自分の命が惜しい。また、他人の命もそれなりに惜しい。悲惨な事故によって引き起こされるさまざまな禍根、ずたぼろになった自分あるいは他人の人生、支払っていかなければならない金、そして死などを想像すると、アクセルを踏む気も自然と薄れる。どう考えても、交通規則を守って走るべきなのだ。」

どうしてこんな書き出しにしたのかと言えば、テーマにしている作品が、真夜中のハイウェイを時速100マイルで疾走する作品だからです。それもレースゲームのように、整備されたコースを走るわけではない。交通規則をしっかり守っているほかの車を追い越しながら、ある大切な用事に間に合わせるために、法定速度を超過して走っていく。操作感もかなり現実寄りで、ミッション車を運転する感覚をうまく再現している。

そうした外連味というか、やむにやまれず悪いことをしなければならない感覚が、じつにすばらしい作品だった。そこで、自動車運転にかんする一般論を語り直すところから始めたわけです。こうすれば、のちに文章で明らかにしていく「真夜中のハイウェイを暴走すること」の暗い魅力が、より一層引き立つと思いました。

・いきなり歴史を語る

これは特定のジャンルや、長年運営されているマルチプレイヤー・ゲームに精通している方に、とくにおすすめのやり方です。何食わぬ顔をして、あなたが愛しているゲームあるいはジャンルの、歴史のある一点から語り始めてみてください。できるだけ自信を持って、まるでそれが常識であるかのように。すると、なんだか不思議な効果が生まれてきます。まるで、見知らぬ国の見聞録を書いているかのような感じがしてくるのです。

『オーバーウォッチ』(2016)

たとえばわたしは、『山羊たちの沈黙――『オーバーウォッチ』におけるメタ、1年の総括とGOATSの死』というコラムを、こんなふうに書き出しました。

「かつて1年半ものあいだ『オーバーウォッチ』の競技シーンを席巻していたメタは、ダイブ・コンポジションと呼ばれていた。これはタンクであるウィンストンとD.Vaを敵方のバックラインに突撃させ、機動力の高いDPSがその突撃によって生じた隙をつき、すばやくキルにつなげて、敵の守りを崩すという戦術だった。」

歴史を書いて、ひとつの原稿にまとめるのは中々むずかしい仕事ですが、それだけにやり甲斐があります。失われていたはずのプレイヤーたちの営みが、あなたの手で記録されるわけですから。ぜひ、挑戦してみてください。

こういった歴史的文章を書くときには、ゲームやジャンルの専門用語を用いることを恐れすぎなくても大丈夫です。そうした言葉は、ゲームを愛する人々の必要によって生まれてきたのですから、文中の的確な箇所に配すれば、おのずと意味が類推されるようになっています。しかし、とくに重要な単語や、ゲームを知らない読者にはわかりにくいだろうなと思うものには、注釈をつけてもよいでしょう。

その四:結尾を考える

どんなものにも始まりと終わりがあります。こと文章においては、結尾も大事です。この部分については、はじめのうちは定型を守って書くとよいかもしれません。

たとえば、弊誌のレビュー記事をまねてみてください。いつも、誰が書こうとも、結尾の「総評」で、ゲームの美点と欠点をまとめています。

これは読者に、評者が感じたおもしろさと退屈さをわかりやすく伝えるために設けられたものですが、書き手にとってはもうひとつのすぐれた指標となります。というのは、すべてのレビューが、この「総評」に向かって帰結していくことになるからです。

あるレビューの「総評」のなかで、「グラフィックが良い」という言葉があるなら、それまでの文中で「そのグラフィックはどのように良いのか」が語られているべきだ。「ゲームシステムが悪い」とあるならば、「そのゲームシステムはどのように悪いのか」が語られているべきだ。

序論、論証、結論の形が、ここでも現れてきていますね。結論でAというならば、論証部分でなぜAなのかを述べるとよい。それが文章の論理的説得力に繋がります。これは芸術作品の採点を数学的に行うことが不可能であるからこその工夫です。この取り決めがなかったら、ずいぶん多くの原稿が独りよがりなものになったことでしょう。

すべてのレビュワーがこの形を守ることによって、「先生を助ける」状況が作り出されます。この場合に助けられるのは「読者」であり、「ゲーム開発者」であり、ゲームを愛するすべてのひとであります。

それでは、そこまで説得的でなくてもかまわないもの、コラムやエッセイの形式で書くときには、どうすればよいでしょうか? これに関しては、じつはわたしもうまく説明できません。書き継いでいるうちに、「どうだ、もうこれくらいでいいんじゃないか」と直感するところがあって、そのあたりで終わりにし、形を整えます。

これについては、各々で感度を高めていただくしかないようです。もちろん美しい文章をいくつも読む、くりかえし読むことがいちばんですが、日常のいろんなことからも学ぶことができます。お笑い芸人の話の落とし方や、ある楽曲の終わらせ方なんかも、参考になるでしょう。

コラムやエッセイの結尾は気負いすぎず、気軽なものにして構わないと思います。こういった文書は、書く意義、読まれる意義が、余暇の楽しみなのですから。

その五:文書の中盤をセクションに分ける

書き出しが決まり、結尾が想像できたら、器が出来上がったようなものです。そのあいだの中盤には、いくらでも文章を盛り込むことができます。あなたが大好きなゲームの話題を、どんどん乗せていきましょう。

ゲームは、さまざまな創意が束ねられた総合芸術です。映像、音楽、文章、演出、インタラクティビティ、なにもかもが入っています。慌てずに、たとえば1段落につきひとつずつ、的を絞って、書いていきましょう。この段落は映像のこと、この段落は音楽のこと、といったふうに。

すると原稿がすっきりしてきて、頭の中が整理されてくるのがわかります。このゲームの映像はすばらしかったけれど、そこまで感動しなかった。なぜだろう――そうだ、音楽がちょっと合っていなかったからだ。それでは、この段落は映像の美しさについて語り、つぎの段落で音楽について語ることにしよう――こんなふうに書き進めていけば、音楽でいえば転調のように、段落ごとにめりはりが効いてきます。

ゲームについて書かれた原稿の理想のかたちを食べ物に喩えると、幕の内弁当です。主菜が鮭であろうと、肉団子であろうと、両方入っていて嬉しかろうと、それぞれのおかずがきっちり区切られていると、美しい。反対に、どんなにおいしそうなおかずでも、みんな一緒くたになって、となりのおかずに醤油が漏れかかっていたりすると、あまり食欲をそそりませんよね。きれいなものは食べたくなる、読みたくなる、というわけです。

とはいえ、スタイルはひとりひとりの個性です。わたしは個人的に、ゲームに関する原稿は幕の内弁当的に書くとうまくいく、と感じていますが、あなたがもしも味噌汁ぶっかけ飯的に書いてみたいと感じているなら、是非やってみるべきです。あれも大変おいしいものですからね。

おわりに

作品への愛情を語る文章には、客体化の魔法がかかります。これは他者の存在を認め、尊重する魔法であり、撃てば撃つほどみんなのMPが溜まるという壊れ性能を持っています。わたしたちがある作品をプレイし、それを愛したなら、その気持ちを表現してみてください。それは開発者とプレイヤーとあなたにとって、とても幸福なことなのです。

長々とお作法について語りましたが、ほんとうは、どんな作法で書いたって構わない。ただ、できるだけ心をこめて、うまくやろうとしてみてください。ゲームについて書くことは、とても楽しい仕事です。作品への愛情を表現するのにうってつけで、他者との繋がりを促し、書き手としての批評眼を育ててくれます。はじめからうまくできる人は、そんなにいません。気長に、楽しんで、やってみてください。

ゲームをプレイしていると、時間があっという間に過ぎていきます。ゲームについての文章を書くときも、おなじくらいあっという間に過ぎていきます。これらはいずれも、すばらしい愛の行為です。創造することになるのですから。

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