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Sunday, April 12, 2020

この未曽有のウイルス禍を乗り越えるためのヒントがここにある――。今日の危機を予見した、パンデミック・ミステリ『夏の災厄』試し読み!#6(全6回) | 夏の災厄 | 「試し読み(本・小説)」 - カドブン

コロナウイルスの脅威は未だ収まる兆しを見せません。この未曽有の危機に立ち向かうにはどうすればよいのか――。いまから25年前に発表された篠田節子さんの『夏の災厄』は、未知の感染症をテーマにしたパンデミック・ミステリです。前例の無い事態に後手に回る行政、買い占めに走る住民たち、広がる混乱と疑心暗鬼……。今日の状況を予見しただけでなく、この災厄を乗り越えるためのヒントも提示する本作の、冒頭部分を6回に分けて公開します!

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 ◆ ◆ ◆

 小西が一枚のファックスを持ってきたのは、翌日の夕方だった。
 青柳が受け取ったのを和子がひったくる。
 富士病院からの報告書だ。房代も覗き込む。
「死亡時刻 四月十六日 午前二時四十分 死亡原因 呼吸マヒ。ムンプスウイルスによる無菌性髄膜炎」
 ムンプスウイルス……
 おたふく風邪を起こすウイルスだ。得体の知れない流行病などではない。
「本当かしら」
 房代は和子の顔を見上げる。和子も神経質な動作で老眼鏡を拭っている。
「無菌性髄膜炎から脳炎症状を起こして死ぬことは確かにあるけれど、あれがそうとは思えないんだけど」
「中村さん、医者じゃないんでしょう」
 小西が口を挟む。和子は報告書から目を上げると小西に尋ねた。
「小西さん、あなた、厚生省の感染症サーベイランス事業の対象疾患をいくつか言える?」
 小西は、ぎょっとした顔をすると、口の中でぶつぶつと言い始めた。
「コレラ、赤痢、腸チフス……それから」
「それは法定伝染病。それが今ではほとんど見られなくなったし、実状に合わないんで、新しい観点に立った感染症対策が取られているの。麻疹に風疹、水ぼうそう、おたふく風邪、それから溶連菌感染症に、ヘルパンギーナといろいろあるんだけど、髄膜炎もその中に入ってる。この病気を診断した開業医や病院は地方の感染症センターに連絡をして、その情報は厚生省へ行きます」
「そうですか。さすがに看護師さんは詳しいですね」
「ただし問題は、そのシステムがある部分で形骸化している、ということよ。制度はあるけど機能はしてないというか……。きのうの打ち合せ会で係長が言っていたけど、確かに伝染病が出たら医者は保健所に報告する義務はある。でも伝染病だ、という診断が必ずしもできるかどうかもわからないのよ」
「だって、医者だったらそのくらいわかるはずじゃないですか」
 小西は、落ちつきなく時計を見た。早くこの場を逃げ出したくてしかたないというのが、ありありとわかる。
「病気っていうのは、黙って座ればぴたりと当たるってものじゃないのよ。仮に検査をしても、結果が出るまで時間がかかるし。この前県内で起きた、大腸菌騒ぎを覚えているわね」
 群馬県寄りの地区で起きた事故だった。簡易水道に毒素原性大腸菌が混入し、広い地域で患者が発生したが、多くの個人医院では、食中毒という診断がなされ対策が遅れた。患者は確かに集団発生したが、それが個々の病院に散ったために、集団は点となって分散し、まとまったところもせいぜいが一家中毒とみなされ、伝染病として実態が把握されるまで、とんでもない数の患者を出し続けた。
「それだけじゃないわ。仮に伝染病とわかっても、いちいち面倒な書類を書いたり、いろいろ聞かれるのをいやがる医者もいる。もっと困ったことには、もしもよ、エイズに匹敵するような恐ろしい感染症が出たとき、あの病院に変な感染症の患者が来たという評判が立つのを恐れる病院は、報告なんかしないものよ」
「だから?」
 体を揺すって、小西は再び時計を見た。終業時間を気にしているわけではない。事務屋には事務屋のスケジュールがあり、時間内にこなさなければならない仕事がある。こんなところで、看護師相手に専門外の感染症談義をしている暇はない。
「もしかすると、別の病気である可能性、新種のとんでもない病気が流行っているのかもしれないのよ」
 苛立った様子で和子は言う。
「そんなことまで、責任持てないですよ」
 それだけ言い残すと、小西は事務室に向かって走り去った。
 後姿を見送りながら、和子は低い声でつぶやいた。
「あれが本当に無菌性髄膜炎なら問題はないのよ。でももし新しい感染症か何かだったら……」
「もしかすると、俺たちにもうつるってことかよ?」
 受付の準備をしていた青柳が口を挟んだ。
「あなたみたいなのには、ウイルスだって寄りつきませんよ」
 吐き捨てるように和子は言うと、器具の消毒を始めた。
 青柳は、保険請求事務の担当者に渡すためにここ一週間分のカルテを整理し始めた。
 その手元に数日前、熱中症と診断された男のカルテを見つけて、房代は抜き出した。
 彼は、一人で家に戻って行ったが、その後どうしたのだろう。
 気になって、電話をかけた。
 女が出た。
「こちら、昭川市夜間診療所です。先日お見えになられましたときに、保険証番号の記入漏れをいたしまして、申しわけないんですがお教えいただきたいと思いまして」
 房代は、もっともらしい理由をつけた。
「あ、はい」
 沈んだ声の調子に、嫌な予感がした。
「あの、お加減はいかがですか?」
「三日前に、亡くなりました」
 女は短く答えた。予感が的中しすぎて、房代は言葉につまった。
「翌朝、病院に行ってそのまま……。たまたま疲れていたところで、風邪のばい菌が、脳に入ったそうです」
「どこの病院でした?」
「若葉台クリニックですけど」
 どうもご愁傷さまで、と言って房代は電話を切った。和子が口元を引き締めてうなずいた。
 大変なことが起こり始めている。
「今日で何日目?」
 和子が尋ねた。
「えっ」
「最初の患者さんが来てから」
「五日」
「最近では、ラッサだの、エボラ出血熱だの、怖い病気が持ち込まれているからね。今までは何とか成田で食い止めていたけれど」
 房代は、ぶるっと首を横に振った。
「まさか、この町で広まるなんて、いやよねえ」
 頭痛に、発熱、吐き気……症状としては、あまりにも一般的だ。
 房代が気づいた限り、特徴的なのは匂いと光をまぶしがるという部分だけだ。しかしそれも単なる偶然であるかもしれない。
 エイズ騒ぎを別にすれば、今では疫病だの流行病といったもの、それ自体が、流行遅れになってしまった感がある。いざ新しい疫病が流行りだしたとき、対応する知恵を人々は身につけているのだろうか。いや、人々だけではない。役所や病院も迅速に手を打つことができるのだろうか。
 昔は、インフルエンザでたくさんの人が死んだものだという、インフルエンザ予防接種の折の、辰巳という偏屈な医者の言葉を房代は思い出した。
 確かに房代が看護師になりたての頃、病院には疫痢の子供がよく運ばれてきた。病院に担ぎ込まれたときは、もう大抵手遅れで、脱水症状に目はくぼみ、心臓は弱く不規則な鼓動を刻んでいるだけだった。天然痘のあばたを顔に残した者もよく見かけた。悪性の風邪が流行った冬は、多くの年寄りが肺炎を起こして死んでいった。夏場には、日本脳炎にかからないようにと、親は子供に麦藁帽子をかぶせたものだ。そして多くの若者が結核で命を落としていった。
 つい、三十年前までの日本はそんな状態だった。そして今、房代が長いブランクの後に仕事に復帰してみると、薬や器材だけではなく、病気そのものが様変わりしている。
 しかし様変わりしただけで、無くなったわけではない。正体不明の新しい病気は生まれ、あるいは持ち込まれてくる。

 その日の夜、診療を終えた鵜川が駅前の商店街を歩いていると、向こうから不動産屋の妻がやってくるのが見えた。
「ご主人、どうです」
 鵜川は声をかけた。
 女は顔を上げ、怒りとも悲しみともつかない顔で、首を振った。
「日本脳炎です」
「えっ」と、鵜川は驚いて、女の顔を見た。紹介先のあき相互病院から鵜川に来た通知には、診断結果までは書いてなかったのだ。
「日本脳炎ですか、いまどき?」
 確かに天然痘と違って日本脳炎は撲滅されたわけではない。確率的には非常に低いが出ても不思議ではない。しかし今は四月だ。いくら暑いとはいえ、盛夏から初秋にかけて流行するはずの日本脳炎に、今かかるというのはおかしい。
「命は、取りとめたんですけどね、障害が残るんだそうですよ」
 病人の洗濯物とおぼしい荷物を抱えて、女は唇を嚙む。
「でも、命だけでも助かってよかったです」
「冗談じゃないですよ」
 女の語気の激しさに鵜川は戸惑った。
「頭も体も不自由になったあの人が、仕事もできずに家に一日中いるなんて」
 吐き捨てるような口調で女は続けた。
「うちは借金の山なんですよ、先生。借金も信用のうちだなんて勝手なこと言って、契約取りに行くとかなんとか朝からベンツに事務員を乗せて、若葉台のゴルフ場通い。あたしが知らないと思っていたんですかね。手足が利かなくなって、何もしゃべれなくなって、この先、面倒見てくれって言われたって」
 ゴルフ場というのは、窪山の谷を隔てた正面にある若葉台カントリークラブのことだ。そこに行く、と女はえんきよくな表現をしたが、実はその帰りに若い女子事務員と窪山のラブホテルに入っていることは、狭い町のことでちょっとした評判になっていた。
 女はほっと息を吐き出し、苦笑した。
「しょうがないですよね。若い頃から尻拭いばかりさせられてきましたからね」
「大変ですね、これから」
 鵜川は、これといったなぐさめの言葉もみつからぬまま、女をみつめた。
 女と別れた後も、あれが本当に日本脳炎なのだろうか、という疑問は鵜川の頭にひっかかったままだった。
 突然の高熱、頭痛、嘔吐に始まり、首のこわばり、体の硬直、そして意識障害、痙攣、異常行動……。
 鵜川は自分が医者になって以来一度も診たことのない、日本脳炎という病気の典型的症状を反復する。
 あれが、そうなのだろうか、本当に。初期症状の中に光を眩しがるなどというのがあっただろうか? あるいはありもしない香水の匂いを嗅ぐなどというのは?
 鵜川は、近くの電話ボックスに入ると、昭留相互病院に電話をかけた。医局を呼び出し、彼の送った患者のことを尋ねる。知り合いの女医が出て、抗原検査を行なったところ、確かに日本脳炎ウイルスが検出されたことを手短に伝えた。
 やはり大学で習っただけの知識では、なかなか臨床診断はできないものだ、と反省しながらも、鵜川はどこか割り切れない気持ちになっていた。

(この続きは本書でお楽しみください)



篠田節子夏の災厄』詳細はこちら(KADOKAWAオフィシャルページ)
https://www.kadokawa.co.jp/product/321411000060/


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April 07, 2020 at 02:00PM
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